宝伝山(ほうでんざん) 妙経寺は、元々は下総国(しもうさのくに)香取郡(かとりぐん)飯高村(いいだかむら)字御堂谷(あざみどうざく)(千葉県八日市場市飯高)にあった真言宗の寺院で、文和年中(一三五二~一三五六年)に眼應院日賀(がんおういんにちが)上人によって日蓮宗に改められました。
『八日市場の村々』(八日市場市史編集委員会)によると、「妙経寺 飯高字御堂谷にあった。権現山と号し、日蓮宗。妙福寺の末寺。本尊は阿弥陀如来」などと記されています。
この飯高の地は「飯高檀林」と言って、徳川家康の側室で水戸・徳川頼房(よりふさ)、紀伊・徳川頼宣(よりのぶ)の生母にあたる養珠院(お万の方)の多大なる御加護により、日蓮宗最古にして最高の、そして最大の学府として栄えた場所です。以来、水戸・紀伊家の飯高檀林及び周辺寺院への御加護は徳川末期まで続いたと伝えられています。
元禄年中(一六八八~一七〇三年)に入ると飯高檀林で学ぶ学僧は益々増え、常に五百~六百人、多い時は千人を超え、五十九もの学僧の寄宿施設が立ち並んでいたと言われています。またこの頃、水戸光国(みつくに)(水戸黄門)が二度に渡って飯高の地を訪れたと『水戸記』に記されています。
慶応四年(一八六八年)、二百六十余年にわたった江戸幕府が終焉を迎え、明治新政府が樹立すると飯高檀林は大きな打撃を受けることとなります。この頃、明治新政府が出した神仏分離令による廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動や、境内地の公有地化により、檀林の寺院は荒廃の一途を辿り、妙経寺もついに無住の寺となってしまいました。また、全国から集まった学僧が一挙にいなくなってしまったため、檀林によって支えられていた飯高村も疲弊し大きな痛手を負います。
明治初年に提出された妙経寺の『寺院明細簿』によると、「檀徒人員九人」と記されています。
しかし、妙経寺の現代史はここから始まります。
明治七年(一八七四年)、現在の飯高小学校が妙経寺に開校され、明治十一年(一八七八年)以降は、飯高、片子、大堀、金原、安久山村の連合戸長役場が妙経寺に置かれていました。
昭和十年(一九三五年)、三代前の住職である「積善院日甫(せきぜんいんにっぽ)上人」によって、妙経寺は南多摩郡散田村(現在の八王子市散田町、境外墓地の地)に再興され、正中山法華経寺大本山別院の称号を賜りましたが、昭和二十年(一九四五年)八月、空襲によって廃塵と化し、再び昭和二十五年(一九五〇年)現在地(八王子市寺町)に移転して本堂を建立しました。
その頃、信行院日照法尼(しんぎょういんにっしょうほうに)によって開創され、八王子の地で多くの信仰を得ていた鬼子母神堂も空襲で焼失していましたが、鬼子母神堂と妙経寺が合寺し、鬼子母神堂の跡地(八王子市寺町)に現在の本堂が建立されました。
こういったことから妙経寺では、眼應院日賀上人を開山上人、信行院日照法尼を中興開基上人、積善院日甫上人を中興開山上人とお呼びしています。
こうして現在の妙経寺が形作られましたが、昭和三十年には「まや保育園」を境内地内に併設し、地域の子どもたちの健やかな成長のお手伝いをしています。
昭和二十五年に建てられた現在の本堂ですが、戦後の材料が乏しい時期に建てられた本堂であることや、また長年の老朽化もあり耐久性に不安がありましたが、令和二年一月から七月までの間に日蓮聖人御生誕八百年慶讃事業として大規模地震対策改築工事を行いました。これにより、かなり大きな地震が来ても耐えられるようになりましたので、安心して檀信徒の方々にお参りいただくことができ、また、本堂横のまや保育園の園児さんたちにも安心して開放することができるようになりました。